突然ParaTが歴史のうんちくを語り始めた

96年6月号「歴史は裏側から見よう」

 いつだったか、日テレのAD(今や売れっ子プロデューサー)と新宿の小便横丁の極不潔焼鳥屋で、もつ焼をホッピーなんぞで流し込みながら、歴史教育の重要性について激論を交わしたことがある。最初は雌雄真っ二つに分かれての大激論だったのだが、結局は同じ山を北と南の双方から登っていたように、結論が統一されてしまうという実に珍しい展開となり、そんなわけでこの夜の大激論を鮮明に記憶しているのであった。

 ところで私は「尊敬する歴史上の人物は坂本竜馬です」とか「勿論、西郷隆盛です」とかあっさり言ってしまう奴が大嫌いである。ちなみに私は坂本竜馬なんかどうでもいいし、西郷隆盛なんぞ「大男、総身に知恵が回りかね」の典型というような大馬鹿野郎にしか思えないので鹿児島県人には申し訳ないが勿論大嫌いである。ちなみに私は今だに明治維新を根本的に嫌悪しており、幕藩体制から共和制への緩やかな移行を目指した幕府国際派の支持者なので、その点では会津とか五稜郭一派のファンである…。

「…なぁんだ、今回は歴史の話ぃ?…熊本のサブカルチャーじゃないのぉ…」とお思いかもしれないが遠回しに関係があるからまあ読み進んでくれろ。

 私は子供の頃から歴史というものが大変好きである。好きになったきっかけをダイジェスト版で解説するとこうである。…旧陸軍省の高級官僚であった私の父親(ちなみに私は父と50才以上も年齢のギャップがある)が「太平洋戦争に負けたのは日米の物量の格差が原因である」と力説するたびに種田少年の心に「ホンマかいな」という疑念がムクムクと沸き上がってきた。人のアラを探すときは急に熱心になるヒネクレ者の種田少年は、様々な資料や文献を精力的に調べてみた…。確かに物量での差があったのは事実だが、それよりもむしろ当時の政治家や軍人の人的資質の差の方が際立って大きかったことに気づいて「あはは、やっぱりね」と常識のウソや盲点を見つけてやたらと嬉しかったのがそもそものきっかけなのである。それからと言うもの、歴史の中に登場するキャラクターの皆さんの実像を暴いていくのが楽しみになり、お陰で世間一般の方々が持っている人物像(つまり虚像)を否定して回るのが大好きになってしまったという上岡龍太郎のようなイケスカナイ奴に成長していったのである。

 例えば、勝海舟なんて奴は明治維新のドサクサに紛れて神戸の土地を買いあさり、バブルで儲けた末野興産みたいなことをやっている汚職野郎だし、幕末ドラマに必ず出てくる薩摩の島津にしても長州の毛利にしても関ヶ原で逃げ帰った後に徳川幕府から300年にわたって徹底的にイジメられ続け、遂に耐え兼ねてその鬱積を爆発させた「イジメられっ子の逆襲」が何故かうまくいったのが明治維新。それはまあ根性を見せたという点では興味深いけど、維新後は、それまで貧乏侍だった奴等が急に偉くなったもんだから、悲しいかな「成り上がり野郎の烏合の衆」つまり私利私欲の亡者の巣窟になったのが明治政府だと言ってもそれほど言いすぎじゃないと思うよ。

 ところが多いんだな明治維新の有名人を支持する奴って、これホント歴史認識の明らかな誤りであり、それが日本の制度上の様々な歪みの原点になっていると俺は思うんだな。

これは小中学校の歴史教育にも大きな問題があるね。教えてる教員の中に少なからず否めちゃめちゃ多いのが司馬遼太郎&NHK大河ドラマのファン…。はっきり言ってどっちも史実に基づいたフィクションであるのに、それをあたかも歴史教育の副読本のように教えてる奴が多い。これじゃ飽きちゃうよなあ。何でも裏側からも見てみないと実像は捉えられないはずなんだが。

 5年位前かな…鶴屋の前で配っていたオウム真理教のプロパガンダマンガを私は今だに持っていて読むたびに大笑いしている。で、何が可笑しいかと言うと、その中に出てくる麻原被告が信じ難いことだが見事に美形キャラにデフォルメされているちゅうことである。まあ言ってみれば大河ドラマが歴史上の人物を二枚目俳優に演じさせているのに似ているな。竹中直人の秀吉は別格としても足利尊氏を真田広之が演じた時は「そんなぁ」と大抵の人が思ったが、それはそれで健康な認識なんだな。ところがオウムの信者は美形キャラの麻原を否定するどころか、虚像を実像であると頑固にインプレスしてしまった。これは歴史や社会現象に対する探究心や懐疑的な視点の欠如に他ならないのだ。だからやっぱ社会科は重要なんよね人気ないけど。ホントは凄く面白い学問なんだけどねぇ。やっぱ教員のレベルアップが望まれると思う。

 ところで、熊本の若い連中はどうだろうか。熊本の虚像を実像として誤認してはいないか?…。少なくとも熊本の近未来を睨んだとき、最も重要なのは、新幹線でも国体でも水俣病でもなく、若い奴等がどういう視点で熊本や日本や世界を見ているかなのであり、もうじき死んじまう地元政財界の小者の腐れ脳味噌ハゲ頭にビデオライトを当ててる場合ではないのである。そのためには、若い奴等が歴史や社会現象に対する正常な懐疑心と探究心を持つべきなのである。熊本でサブカルチャー的活動をしている奴等のほとんどが10年前のコピーの繰り返しの後に迎える消滅という下らん先祖帰りをそろそろやめるためにも私のような生き字引的先達を大切にしろって一応言っとこうか。

ParaTエッセイ・トップページに戻る

all right reserved"fm-monday club"kumamoto.japan.1999-2001