九州から観て東京よりも近いのがアジアです。

長編紀行エッセイ「釜山右往左往」

1993年2月頃執筆

 私は海外旅行が苦手である。苦手といってもそんなにあちこち出歩いたわけではないので本当に苦手かどうか分かったもんではないが、ともかく比較的国内旅行の方が好きなのは多分事実である。仕事柄、海外取材なんてのもたまにやらされるけれども本音を言えばあまり嬉しくないのである。他人からは贅沢な悩みだと非難されるのだが、ニューヨーク摩天楼タウンウォッチングなんていうのよりも《日本国内純ひなびた温泉型観光旅館美人女将ふれあい旅》のようなのが何百倍も嬉しいのである。第一、ビザや通関手続きなんてのも不要だし言葉の問題(方言は別として)も無い。その上「フリーズ!」なんて言われてマグナムを撃ち込まれることもなければ狂気の独裁者の人質になることもまずない。治安を心配するちゅうことはとりあえず今のところ我が日本国の場合ほとんど必要がないのが大変よろしいと思うのである。そんなわけで最近は海外関係の仕事は会社の部下に回したりして「さわらぬ神に祟りなし状態」を決め込み、パスポートも期限切れとなっままほとんど紛失状態となっていたのであった。ところがである。師も走るという年の瀬の慌ただしい最中、そんな私に思いもよらぬピンチピッター海外取材業務が舞い込んできたのである。

「唐沢くん、今度の1月30日あいてる?」
「はあ、一応あいてますが何ですか?」
「釜山行かんね、足達くんと一緒に」
「釜山ですか?韓国の?取材で?」
「そうそう、タイアップが取れたんよ。JR九州のビートル号の、それとホテルはハイアットリージェンシーくさ。最高級くさ」

 博多弁まる出しのプロデューサー氏のありがたいお言葉である。よくよく話を聞いてみると予算は二人分しかなく一人は番組のパーソナリティーの足達ヒデヤで、もう一人は取材ディレクターということになっていた。当初この取材ディレクターはADのアルバイトをしている大学生のベテラン内藤くんに担当してもらう予定だったらしい。彼は大学生である数年間(あえて年数は伏せる)ずっと番組に貢献してくれた人物で、卒業・就職を目前に控え、番組からの卒業祝いとしてこのミニ海外取材となるはずだったのだ。ところがなんと!韓国当局が「学生はダメ」と言ってきてもんだから話がいきなりややこしくなるのである。ちなみにT唐沢Uという名前は、私が福岡で一時的に仕事させてもらってたときに使用していたペンネームである。
「谷口さんじゃ駄目なんですか?」
「予算が少ないからホテルがツインの一部屋なんよ。足達くんと一緒じゃまずかろう」
 谷口さんというのは私の担当曜日以外の女性ディレクターである。
「だから唐沢くん。君しかいない!」
 まるでベッセンDの財津一郎である。要するに私はもう逃げられない状態に自然に追い込まれていたのであった。袋の鼠なのである。
「私が行かなかったらどうなるんでしょうか?」
「唐沢くんが行けないとなると…この取材は中止ということに…なるな…」
 ムム!いきなり私にキャスティングボートを握らされても困るんよねぇ…と思ったが、諦めが早いというのも私の長所の一つなのだ。大人げなく抵抗して私が韓国に遺恨でもあるのかと誤解されてはたまらんので一応了承することにした。そんなわけでとりあえず取材旅行の準備が始まったのである。

 ラジオだからテレビなんかと比較して規模はずっと小さいものの取材業務という事には変わりない。手続き上は一般の旅行と条件が多少異なりやたらといろんなものを提出させられるのである。その中でも一番困ったのが納税証明書であった。なんたって私の場合、東京から九州に本拠地を移したのが二年前で、この福岡の放送局でひょんなことから仕事を貰うようになったが半年前であった。要するに一年半以上私は無収入の生活を続けていた言わば《いい年してLIKE A親の扶養家族》だったのである。ついでに言えば現代に甦った竹の子生活者てなわけだな。だから恥ずかしながら必然的に所得税も市民税も合法的に払う必要が無かった。そこで納税証明書と言われても物凄く困るのである。
 ともかく払っていようがいまいが書類が必要だということで、それがないと取材ビザが下りないというのだから仕方がない。市役所に納税していません証明書を貰いに行くのであった。
 市役所では「納税していないのに何故証明しなければならんのか」と窓口の男が下馬評通りの猜疑心溢れるご質問なのでこっちもすかさずマニュアル通りにこう答える。
「住民票よりも本人の所在の有無が明確である納税証明書が取材ビザ発給に必要なのだと大韓民国領事からのお達しである」
 と一歩も引かぬ構えを見せた上で、ここで素直に証明書を発行しないと国際問題になるのだぞという鋭い目で迫ったところ一応平和裏に証明書は発行されたのであった。
 それにしても見事に納税額「¥0- 」と印字されている。ひょっとするとこんな「納税していません証明書」を発行されたのは宇宙でも俺だけかもしれんなどとしみじみ思う私であった。

 パスポートも改めて発行してもらいに熊本県庁に行った。平日の午後三時ぐらいであったが結構人が多い。《海外旅行初めてだけん型あそんでくるけんね風スケベ親爺》が五人ほど下品な会話をしている。「やっぱチェンマイばい」「ばってん病気が恐か」などと日焼けした額にシワを五本ばかり寄せて笑っている。別に正義漢ぶるつもりはないが私はこの手の親爺が大嫌いである。今ここにイングラムM−11でもあれば五人まとめて蜂の巣にしてくれるのだが残念である。
 そういえば新大久保界隈ではタイだのフィリピンだの台湾だのの売春婦が山ほどたむろしているが、あれはなんとかならんもんだろうか。なにも彼女達を責める気はさらさらないが、中にはヤクザに騙されてイヤイヤお客をとらされてるのも居るんじゃないかなぁ時代劇みたいに。まあなんにせよ海外まで出掛けてって「旅の恥はかき捨て」という行動は日本人全体にとって最大の恥であると思うのである。道徳なのである。だから私はタイにも行ったことがあるが、その手のことには全く手を出していないという今時の業界人とは思えないまるで神様のように清潔な人物だという事をこの紙上を借りて発表させて頂くのであった。合掌!

 1月30日になってしまった。出発である。博多埠頭から毎日出ているJR九州のビートル二世号での約3時間の船旅である。ビートルと言っても科学特捜隊の攻撃機ではなく、ジェットフォイルと呼ばれる水中翼船である。この日は生憎の曇天・強風で港内もかなり波立っている。水中翼船というのは高速走航中(正確には翼走というらしい)は大変に揺れには強いのだが、泊まっているときは普通の船と変わらず波に任せて好き勝手に揺れるのである。同行のレポーター足達ヒデヤは乗物酔いしやすい体質らしくすでに顔色を失いつつあったが、そんなことにはお構いなくビートル二世号「通称・海飛ぶかぶとむし」は定刻通りエンジン音を上げて海上を滑り出した。

 船内は定員の六割位の乗客である。中年のグループが何故か圧倒的に多い。中にはOL免税品買物ツアーのようなグループもいるがどうも全体的に気怠い雰囲気である。天気も良くなく多少小雨混じりということもあって我々のテンションも今一つであった。
 もっとも高々三時間の船旅なのであるから何となく海外旅行という感じがしないのである。その辺の離島に出掛けるといった雰囲気なのだ。今一つ盛り上がらないのも頷けるものがある。
 この船には旅客機並にパーサーなんてのがいて色々と乗客の世話をするのだが、このおじさんは我々取材チームに積極的に話し掛けてくるなかなか仕事熱心な人であった。船の性能とか海の状況などについていろいろと説明をくれるのだが「我々は釜山の取材がメインであって船の取材じゃないのよね。あんたの言う性能とか海については下調べ済んでるんよ。だから放っといて寝かせてちょーだい」と言いたかったのだが一応スポンサーなんでそうも言っておられず熱心に聞くふりをする素直な私であった。

 馬耳東風も結構疲れるので船内をうろつくことにした。コクピットにも入って良いという特別のお達しだったので取材がてら行ってみるかと足達に声をかけた。
「足達っつあん。そろそろコクピットを取材しに行きましょうよ」
「ああそうですねえ。ちょっと寝たんで酔いも治まってきたようだから行きましょうか」
 ちなみに足達という男はロックミュージシャンである。あの一世を風靡した「イカ天」で三週連続人気投票第一位になったバンドのボーカリストなのだ。明石家さんまと松田聖子主演の映画「どっちもどっち」にその名もズバリ「イカ天バンド」という役柄で出演しているほどなのに腰の低さと運の悪さが災いしてメジャーデビュー出来ないまま福岡にて隠遁生活を送っている男である。映画「砂の器」と伝統的な古典芸能を愛するという今時のロック野郎とは思えない博学かつ礼儀正しい今が買い時な人物である。
 コクピットに入ると案外少ない計器類と簡単そうなレバーが並んでいた。多分実際には複雑な作業があるのだろうが、何となくゲームセンター風の操縦システムであった。コンピューター制御の最新ハイテクなのだそうだ。
 船長や機関長の話では今日の波は2mちょっとで玄界灘では並の上といった高さだそうだがこのコクピットからは割合うねりがはっきりと確認できる。

 一応形ばかりの取材を終えて客室に戻るやいなや足達はコンディションが最悪となったようで慌ててトイレへ駆け込んで行った。胃袋のマグマ溜りからこみあげる内容物が鳴動を伴って国際航路の便器へと噴出したのであった。ちなみに見たわけではない。
「もうすっきりですよ」と言いながら戻ってきたもののまだまだ顔色が悪い。第二次噴火もあるかも知れぬと唐沢噴火予知連会長は見解を示していた。

 それにしても玄界灘はなかなかの荒波である。「小倉生まれで玄海育ち、口も荒いが気も荒い」というが何となく頷けるフレーズである。このひと月ほど前に私は番組のAD連中と一泊旅行で壱岐に渡ったのだがこの時も今日と同じく玄界灘を通ってひどい目にあった。出発当日の早朝まで深酒をしていたので自業自得といえばそれまでだがなんにせよこの海は波が高くて船がやたらと揺れるのである。この時は一千トン位の割合大きなフェリーであったが前後左右にゆっくりとしたうねりに任せてギギギギギーと揺れていた。私は一人甲板に出て風にあたっていたのだが二日酔いで消化不良の胃袋にはなんの効果もなく結局私も未曽有の大噴火となったのであった。実はこの後すぐに驚異的な回復をして壱岐に上陸した直後に名物《はらほげ食堂》のうにめしに舌鼓を打ち、夕食では唐沢オリジナルの玄海丼四杯を平らげるというタフなところを見せるのであるがこの話は別の機会にすることにしよう…。

 一回噴火して幾分スッキリ系になった途端に足達が「じゃ今度は下の免税店に取材行きましょう」と言い出した。かなりせっかちである。「もうちょっと休んでてもいいんじゃないの?」という私の声を「大丈夫、大丈夫!」と遮ってマイクを握り足達は階下に降りていく。私はデンスケをぶらさげて付いていく。なかなか珍妙な二人組である。
 免税コーナーでは免税価格でメチャ安の国産ビールとか舶来の化粧品とかビートルのオリジナルグッズなんかを売っていた。ビートルは既に対馬を越えたあたりを時速80キロ位で滑走中であったがここら辺は思いっきり外海である。先程よりうねりも気持ち強目になったようであった。
 日頃は編集のことなども考慮して割合長めにレポートする足達がやたらと短くまとめたので変だなと思うやいなや彼は免税コーナーのすぐ横にあるトイレへと駆け込んで行った。噴火予知連の読み通りの第二次噴火であった。
 こんな修羅場があったにも関わらず放送の中では「いやあビートルってのは全く揺れがなくて実に快適なもんですねえ」と言わなければならないので番組なんてものは全く本音もクソも無いのである。さらにはダメ押しで「僕は船酔いしやすい体質なんですが全く酔わなかったのは今回が初めてです」とまで言わせてしまうのである。放送というものに客観報道という原則がもしあるのならば「全く揺れないわけではないので中には船酔いする人もいたが全体的には快適な様子であった」と言わせるべきでなのだろうが、こんなところにヤラセと虚偽の報道という悪魔が潜んでいるような気がする。
 とは言うもののスポンサーを持ち上げなければならないのが民放の宿命。正直な真人間には堪え難い職種かも知れないなと最近感慨深く思う私である。硬派な人には向かない仕事かもな。
 ともかく壱岐に行ったときのフェリーから比べれば全く揺れないに等しいくらいであったので私はなんとも無かったが、お客の中にはグロッキー状態の人も少なくなかったのは事実であった。

 ところでこの釜山取材のそもそもの目的は何かと言うと、ある旅行業者主催「福岡発の釜山ツアー」のPRでなのあった。一泊二日でビートル二世号での往復。お泊りはハイアットリージェンシー釜山ホテル。そして気になるお値段は破格のお一人様二万円也というへたな国内旅行より安い文字どおりの激安ツアーであった。「まあなんにせよ韓国の若者の風俗でも見ておいで」というプロデューサー氏の気軽なお言葉を胸に我々は近くて遠い異国の地へと踏みだしたのである。

 釜山港に着いた。どうしてもあの唄がちらついてくる。この場合やはり渥美二郎よりも本家チョー・ヨンピルであろう。どうでもいいような気もするがそこら辺はこだわる必要があるように思える。本家なのである。キムチとプルコギとアリランなのである。
 韓国というのは準戦時体制の国であった。38度線を挾んで「敵国」が睨みつけているのである。そんな関係で釜山港内は一切撮影禁止という事であった。軍事衛星が飛んでいるご時勢で今更撮影禁止もなかろうと思ったが、さすがに日本人は図々しい。ビートルの乗客は《写るんです》から《Hi8》まで全くお構い無しにシャッターを切っておった。
 船内から見える釜山港は被写体としてなんにも面白くなかったので私はシャッターを切らなかったが、翌日になって港内が全て見渡せる山の上から全景をしっかり撮ってきたのであった。帰国後出来上がった写真を見ながら「私はスパイの素質があるかも知れぬ、フフフ…」と不敵に笑ったがやはり誰も相手にはしてくれなかった。

 いよいよ上陸である。空気はかなり乾燥している。雲一つ無い冬の青空と遠くシベリアから流れてくる寒気がなるほどここはユーラシア大陸なのだと明確に認識させてくれる。3時間程前までいた九州の地と大した距離は隔ててないはずなのに鼻腔を抜ける空気が全く異質な感じがした。

 さて入国手続きである。ゲートが2つしか開いてないので順番待ちの長い列が早くも出来上がっていた。
「…ったく能率が悪いなあブツブツ…他にもゲートを開けろよったくブツブツ…」などと呟いていたら、制服姿のいかつい通関係官が濁音の部分に特長が出る韓国訛りの日本語で我々に話し掛けてきた。
「あなたラジオの取材の方?」
「は、はいそうですが」
「こっち、こっちへ来て、こっち」
 いきなり名指しでこられるとなかなかドキリとするものである。何か悪いことでもやらかしてしまったのだろうか。今の私の独り言を聞かれてしまったのだろうか。ひょっとしたら政府批判の罪かなにかでこのまま二度と日本に帰れないのではないか…などと不安な思いが心をよぎっていく。ところがまあそんな不安なんてのは大体すぐに被害妄想だと判るもので、今回も「なあんだこんなことか」と簡単に解決されたのであった。
 種を明かせば通関係官が手招きする方向にもう一つのゲートが開いていたのである。要するにわざわざ我々の為だけに入国審査のゲートを用意してあったというわけだ。取材関係者向けの優遇措置なのである。VIPなのである。
「ほほう、ちゃんと連絡がいってるんですね」
「とりあえず気分はよろしいですな」
 などと急になかなかやるじゃん型高感度になってきたのであった。
 パスポートのチェックを無事通過して今度は手荷物の検査である。私が並んだ列は気の強そうな《あんたら日本人なんかに舐められんけんね型》の25歳位の女の係官がお相手であった。女子プロレス、直立不動、硬派、鉄仮面、公僕といったイメージのこの女は荷物をピシッと指差しながら「これはナニ!これは!」と気合いの入った威圧感丸出しで検査しているのである。なかなか曲者のようだ。
 そしてそして遂に私の順番がきたのであった。
「カバン見せて!」
 はいどうぞ見て下さい。怪しいものはございませんよ…。
「これはナニ!」
 フフフやはりそうきたか…。
「テープレコーダーです」
 デンスケだよん!と言ってやったらどうなるかちょっと興味があったがとても冗談が通じそうな相手ではないのでとりあえずノーマルに答えておいた。ところがこの威圧女はさらなる突っ込みを入れてきたのであった。
「ナゼ!?」
「…へ?…」
 何故と言われても困るのである。ラジオの取材なんだからテープレコーダーが無いと仕事にならんのですだ。お見逃し下せえお代官様。
 とはいうもののこの女の態度に温厚なわたくしもさすがにムッとくるものがあった。しかしここでトラブルを起こしてそれがきっかけとなって戦争にでもなったら当家の家風に末代までの禍根を残すことにもなりかねぬ…と冷静に判断したわたくしは気を取り直してこれがジャパニーズスマイルよん!てな満面の笑顔でテープレコーダーの理由を説明したのである。
「えー、私は福岡のラジオ番組の取材で来たわけでして。このテープレコ…」
 ところがである。この鉄仮面女は私の話をほとんど聞かずに…。
「行って!はい次!」
 ときたもんだ。
「ククク、クォノアマア!中途半端に煮え切らない僕の心をどうしてくれる」
 と心の中で叫びながらトランクの蓋を閉じていざ大韓民国に入国せんとする私であった。とりあえず第一印象はペケである。
 一方、足達は人の良さそうな中年男に検査されていた。ところがこの男は足達が持参したウクレレをバイオリンだと言ってきかないのである。韓国ではバイオリン禁止令というのがあって、バイオリンの入国は麻薬や拳銃と同じく水際にて防ぐという規則がある。もちろんウソである。
 結局バイオリンでもウクレレでも構わないのだが生真面目な中年男はその区別を明確にしたかったらしい。日本では偉大なコメディアン牧伸二のお陰でウクレレとバイオリンの区別位は大抵の人が可能だが、お国が違うとこんなハプニングも起こるのである。

 まあなんにせよ入国審査は無事パスし、釜山港国際ターミナルを出て街並へと我々は歩き始めた。時刻は午後3時頃であった。
「どこ行きましょうか」
「どこでもいいですよ」
「どこか行きたいところはないんですか」
「べつに」
「とりあえずあっちに行ってみますか」
「そうしますか」
 折角の海外取材なのに我々はこの調子である。取材のメインは翌日ということになっておりガイドの人はその時だけ同行することになっていたのでここではとりあえず自由行動である。今回取材のコーディネートをしてくれた旅行業者の人は「港に着いたらホテル直行の無料送迎車に乗るといいですよ」と親切に言ってくれたのだが「折角ですけど色々と市内を下見しておこうと思うんで市内をぶらついてからタクシーか何かで勝手にホテルにチェックインします」などと不覚にも強気なところを見せてしまっていたのであった。
 素直に言うことを聞いておいた方が良かったかもという後悔の念を振りきり「いや!いかなる難関にも立ち向かうのが男なのだ」と勇気を奮い立たせたのである。
 とりあえず我々は観光マップを頼りに釜山駅まで行ってみることにした。港からは1キロ弱の距離である。いかにも観光客でございという感じで街並をきょろきょろ見渡しながら歩くと結構目立つようである。もっともロッカー足達は髪を茶色に染めておりただでさえ目立つ。ましてやご当地韓国では髪を染めた男など例外中の例外らしい。さすがに徴兵制度がある国だけのことはある。

 彼等が我々を珍しげに好奇の視線で見つめるのと同じように我々も周辺の看板や店先のウインドーなどが実に新鮮である。なかでも一番目を引いたのは予想を裏切ってナント日本語であった。日本語といっても日本人観光客相手のお店の看板などによくあるやつではなく若者が乗るバイクや車に貼ってあるステッカーなのであった。日本でも見かけるでしょ車やバイクにいろんなステッカーを貼っているやつ。ちょっと前なら「CABIN」とか「無限」とか最近だったら大阪の「FM802」とかね。あの感覚で韓国の若者もオリジナルステッカーを貼ってるらしい。ところが日本語といってもそれは平仮名や片仮名というだけで全く日本語になっていないのであった。本格的に意味不明なのである。
 最も印象的だった奴は路上に留められていたスズキ製の250CCのスポーツバイクであった。これには御丁寧に3カ所も《YAMAHA》というステッカーがデカデカと貼りつけた上、さらにカウルの左右には謎の言葉《さいしまて》が鮮やかに貼られていたことであった。
 はたしてこの《さいしまて》とはいったい何を意味しているのだろうか。ひょっとしたら韓国語に「さいしまて」と発音する言葉があってそれを平仮名をあてて表記したものかもしれぬなどと思ったが未だに結論には至っていない。ただこの《さいしまて》以外にも謎の平仮名・片仮名に幾度か遭遇することがあった。いつか解決する糸口を見つけたいものである。

 ぶらぶら歩いているうちに釜山駅に着いた。さすが人口四百万、韓国第二の都市だけある堂々とした駅ビルである。ちょっと誉めすぎた。
 我々の宿泊地であるハイアットホテルがある海雲台ビーチの方向に行く列車があるご様子で線路が観光マップには記されているのだが待合室の壁の時刻表を見てもどれがどの線だか全く分からない。なにせ全てハングル文字なので全く読めないのである。せめてローマ字でもあればと思うが世界一優れた文字とも言われるハングルの国のこと、そんなことにはお構いなしなのだ。
「困りましたね。どうしましょう」
 ふと思いついたことがあったので私はこう言った。
「まだ時間もたっぷりあるんで、どうです?地下鉄にでも乗ってみませんか」
「そうですねえ。どこまで行きます?」
 私は例の観光マップを指差しながらこう言った。
「ここに市場があるんですよ。どーもこの佐川洞というところで下車するといいみたいなんですけどねえ」
「大丈夫ですかねえ」
「ニューヨークじゃないですから大丈夫でしょう」そんなわけで我々は釜山駅の地下鉄ホームへと向かったのであった。
 因みに私はみんなから鉄道ファンと呼ばれている。自分では鉄道ファンではなく鉄道模型ファンなのだと正確に分類しているのだが周囲の人間からは同じように見えるらしい。おかげ様で誕生日の頂き物もNゲージの鉄道模型を贈って下さる方が多くなってきて大変喜んでいるのである。暗に「私宛の贈り物はNゲージがベストよ」と言っているような気もするが「私の線路にはまだ若干の余裕がございます」と林家こん平みたいなことも言っておくのである。
 ところでその土地土地の乗り物には何故だか惹かれるものがある。オリジナルのカラーリングと言い周囲の風景とのコントラストと言い遠くから見ていても飽きないと思うのである。現在住んでいる熊本市には熊電という典型的なローカル私鉄があるのだが、そこを走っている電車は元々東急で使われていた奴である。吊り革には「お買物は109で」などと書かれたプレートがそのまんま貼られていてこの車両の数奇なドラマを感じたりするのである。種村直樹みたいなことを言うがやはり鉄道はロマンなのである。
 韓国の列車は日本の国鉄時代のカラーと中国の大陸的なデザインとが合体したようなどこかミスマッチな感じのする車両であった。しかし何にせよ市民の生活の動脈として重要な使命を持った車両達であることには変わりなくそれらの車両に向かって「ファイト!」なんて心の中で言ってしまって「僕ってひょっとしたらやさしい人なのかも」なんてリリックな気分にひたってしまうのでした。へへ。
 地下鉄の切符売場まできたところで我々の歩みはピタリと止まってしまった。我々は思いもよらぬ大変な窮地に立たされてしまったのである。と言うのもこの駅では上り線と下り線のホームが別々なのだがそれは良しとしてもなんとここでは上り下りの改札が別々なのである。しかもホームは改札を抜けて階段を下りたところにあるのでどちらが上りでどちらが下りの改札なのか全く分からないのである。地元の方々はなんてこともなくスウッと改札を抜けていくのだが我々余所者はまたしても識別不能な事態になってしまったのである。

「あの駅員に聞いてみますよ。若いから英語くらい多少は分かるでしょ」
 足達にはアメリカ人の友人がいて日常会話位は支障なく話せる。私もたまに外国人と英語で会話することがあるが英検3級の私でもまあなんとかなるもんである。
 20歳過ぎ位の頼りなさそうな若い駅員をつかまえて足達が例の観光マップで佐川洞を指差しながら英語で尋ねる。するとこの男は無言で向こうの改札を指差した。なんだか分かってなさそうで非常に怪しかったのだがとりあえずこの男を信用してその改札を抜けて階下のホームに立った。
 営団地下鉄丸ノ内線本郷三丁目駅をもっと暗くしたといった感じのホームである。さすがメインの駅だけあって人は多い。
「さてどっちから電車が入ってくるかですな」
「あっちから来たら正解ですね」
「そうそう。案外反対方向ってこともあったりして」
 などと言っているうちに答えがでた。見事に不正解であった。これではドリフ大爆笑お馴染みもしものコーナー「もしも上下の区別がつかない地下鉄があったら」などと言った間の抜けたコントではないかなどとブツブツ言いながら階段を上がって再び切符売場へと出ていく淋しい二人組であった。
「くそ!切符代損しちまったい」
 もっとも切符代と言っても日本円にして三十円あるかないかという程度だが。
「こんどは私が聞きましょう」
 と強気な私は今度は逆に年配の駅員をつかまえて堂々と日本語で尋ねてみた。
「ここへ行きたいんだけどどっちを通ればいいんですか?」
 するとこの親爺さん滅茶滅茶流暢な日本語で答えたのである。
「ああ、これはサッチョンドンという駅です。サッチョンドンにはあちらの改札を通ります。ここから三つ目の駅です」
 なるほどここは昔日本の悪辣な覇権主義者が植民地にしただけあってこれ位の年令の人は日本語に通じているというが本当であった。このお国では下手に英語とかを使うより日本語でトライした方がなんとかなるかもしれぬという教訓を得たような気がした。
 この親爺さんとのやりとりに気付いてさっきの若い駅員も走ってきた。どうやら彼も間違った方を教えたことに気付いたらしく頭を下げていた。よく見ると素朴な笑顔の青年であった。

 今度は間違いなく電車に乗れた。日本の地下鉄より一回り小さい。結構満員状態で我々も吊り革に掴まって立っていたが車内の空気が異様である。高麗人参臭いのである。以前韓国に行った友人からの土産でロッテ高麗人参ガムというのをもらったのだが非常に強烈な味と香りだったのを記憶している。車内の臭いはまさにこれである。後から聞いた話だが韓国ではこの人参ガムが結構人気があって口臭予防と健康の為に噛んでいる人が多いとのことであった。しかしこれでは口臭予防どころか口臭撒き散らし状態ではないかと思ったりもしたが郷に行っては郷に従えである。フランスはジタンの香りして東京は魚の臭いがすると何かの本で読んだことがあるが韓国はやはり高麗人参なのである。

 ガランとした寒々しいサッチョンドン駅に着いた。後で分かったのだが我々が行こうとしている市場にはもう一つ先の駅の方が近いのであった。例の観光マップにはそんな駅は記載されていなくて大幅な遠回りをすることになってしまった。
 駅を出てのんびり下町風の町を歩く。なんとなく懐かしい界隈である。私が小学校の頃母方の親戚が大阪市東淀川区三津屋というところに住んでいて何回か遊びに行ったことがある。そこは町工場に囲まれた機械油の臭いのする下町で、声のデカイおばさん達の元気な会話と意味もなく走り回る子供達の足音が何故だか印象的なところだった。今私が歩いているのは異国の下町だが二十数年前の日本にタイムスリップしたようなそんな心地良さを感じさせる界隈である。
 この町でも子供達が意味もなく飛び跳ねている。そして意味もなく走り回っている。ふと気付いたがこんな当たり前の光景が今や日本では見られない。全然無いとは言わないがあまり見かけなくなったのは事実である。帰国してから注意して見ているがどうもそのようである。私は教育評論家でも何でもないので偉そうなことは言えないがやはり日本はおかしくなっているような気がする。上等なブランド物の服を着てピカピカのランドセルを背負って歩いている小学生がサバの目のようになっているのはありゃいったい何なんだろう。

 貸本屋があった。我が国では殆ど全滅状態に近い貸本屋であるが釜山ではまだまだ人気のご様子である。店の壁といいガラス戸といい通りに面してる側にはベタベタとマンガのポスターが貼ってあって一目瞭然でその手の店だと分かるのである。どのポスターの絵も日本で十年位前に主流だったような画風である。要するにキャンディキャンディや宇宙戦艦ヤマトに出てくるようなキャラクターがご当地では全盛なのである。
 犬も多い。各家庭のペットのようだが小型犬である。何という種類の犬か判らないが日本では今のところ見たことがない。ポメラニアンを一回り小さくしたような茶色の犬で耳の毛が長くて印象的な可愛い奴であった。日本に持ってきたら間違いなく流行りそうであるがこの犬の将来を考えると日本のようなモラルの低い人種に飼われないよう祈りたい気持ちである。

 三十分程歩いてやっと市場に着いた。夕方近くであるが大変にぎやかである。路上にテント張りといった感じで映画に出てくる戦後の闇市のようでもある。キムチに使うのであろうか唐辛子を山積みにした店とか怪しげな兎の干物がぶらさがっている乾物屋とかいろいろあった。ここに来れば衣料と食料の全てが揃うそんな庶民の市場である。
 一目見て間違いなく海賊版と分かるカセットテープ屋も何軒か出ていた。チョーヨンピルからマイケルジャクソンまであらゆるコピーがそこにあった。一本が日本円で八百円位のようだった。
 腹が減った。よく考えてみると日本を出てからまだ何も口にしていなかったのだ。おでんのような煮込みや揚げパンのようなものを売っている屋台はあちこちにあったのだが今一つ勇気が出ない。なにせ予備知識無しで街に飛び出したということもあって何が何やらさっぱり分からず、二人共に君子危うきに近寄らず状態に陥ってしまったのである。
「とりあえずホテルに行きましょう」
 一回戦はあえなく撤退である。ほとんど不戦敗に近い。帰りは路線バスにチャレンジしようと思ったが料金システムが分からない。しばらくバス停で人の乗り降りを観察したけれども今一つ確信が持てず、結局相乗りが常識だというタクシーをつかまえて走ること約30分、有数のリゾートである海雲台ビーチのハイアットリージェンシー釜山に着いた。

 疲れがドッと吹き出してきたので小一時間ばかり部屋で休んでから海岸沿いの屋台見物に出掛けることにした。海雲台は弓形に2キロ程続く砂浜に沿ってリゾートホテルが建ち並ぶ一大観光地で、なんとなく熱海のような立地である。温泉もある。
 屋台はビーチに沿った道路上に数十軒並んで夕方から深夜三時位まで出ている。眩しい白熱灯に照らされた新鮮な海の幸が見物である。ただこの屋台には若干問題があるとのことであった。ボルのである。
「えらく高い料金をふっかけてくることがあるんで注意した方がいいですよ」
 と旅行業者が言っていた。
「もっとも高いと言っても日本の貨幣価値の六分の一位ですから払えない料金ではないですけどね」
 とも言っていた。
 時刻は午後7時を回って辺りには夕暮が迫っていたがどの屋台にもお客がいない。やはりボッタクリという評判が広まってしまったのだろうか。おもしろいくらいにどの店も閑古鳥が鳴いていた。だが魚はなかなか新鮮そうである。私は高校時代に魚屋で働いた経験があってそれなりに魚を見る目は持っている。九州ではあまりお目にかかれないホヤだとか生きたタコとかいろんな魚が実に食欲をそそるのである。ただでさえ朝から何にも食べていないので胃袋の欲求はストレートにそれらの魚に向かっていくのであった。
 人間とはおかしなもので一度欲求のバイブレーションが高まっていくと自己抑制基準はどんどん緩和されてしまう。さっきまで絶対ダメだったものが、これだったら良しとしようというふうに曖昧になっていくのである。まるでどこかの国の憲法判断のような曖昧さである。
「どうしましょうか旨そうだから入ってみますか」
「あそこの店の人は良さそうだから大丈夫でしょ、きっと」

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