熊日グリーンページにおける自己完結型エッセイ
「バリアフリーのパラダイム変換」 1997年9月下旬執筆 低床式の電車やバスが導入され、バリアフリーに対する市民の意識が高まって来たことは良いことである。良いことではあるが、いつもの天の邪鬼な私の思考は「なんだかねぇ」と偏質化していく・・・。 第一の疑問。あのバカ高い乗り物をあらゆる路線に整備することが可能なのだろうか?・・。公共交通機関の苦しい財政状況からすれば、まず無理だろうし、公的補助にも限りがある。・・やっぱ無理だわね。 第二に、停留所が全てバリアフリー化出来るのかという疑問。市電の電報局前は歩道橋を渡らないと行けないのだが、やっぱり一つ手前の交通局まで行かねばならんのかいねぇ。 第三に、ラッシュ時などに車椅子の乗り降りが可能かという疑問。仮に可能だとしても、乗り降りに関わる時間のロスを考えると、周囲の冷たい視線にさらされる障害者側の精神的負担はかなり大きいんじゃないの? 第四に、建物という建物にスロープだの手すりだのを設備しまくることが出来るのかという疑問。そんな予算とスペースは、そうそうあるもんじゃない。 そして最大の疑問は、障害者に対してやさしい街作りというのが本当にやさしい街なのかということ。 で、思うんですよ。 昔、未来少年コナンに出て来たダイス船長の乗り物みたいなのって、幾つかの研究機関ではかなり真剣に研究開発が進められているとの由・・。ああいうのが「SF」ではなくて本当に出来ちゃえば、はっきり言って最近よくある建物のスロープなんざ、ただの滑り台ですぜ。 わたし、誤解覚悟で書くと、バリアフリーって「健常者から見るとバリアになっている」ときが多いような気がするんですよ。 日本型(と果たして呼んで良いものか分からないが)のバリアフリーとして、むしろ「障害者側がバリアを突き破るようなやり方」を模索してもそろそろ良いのではないかと真面目に思っておりまする。 障害者を腫物を扱うようなデリケートなものとして認識しがちな社会構造にも問題があるし、こういうのは一種の悪意ある差別とも言えなくはない。 |
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