熊日夕刊「ヤング欄」における自己完結型エッセイ

アメーバ捜査網・番外編「アメーバ伝説」

1998年3月中旬執筆

(熊本日日新聞夕刊「ヤング欄」で隔週連載されたコラムの由来です)

1985年、春。

ラジオが…。
テレビが…。
雑誌が…。
新聞が…。
熊本のメディアの何れかが「JOIN」という名を連日取り上げていた。

日本初のミニFM局である「白川放送」を母体として誕生した恐らく当時全国最大規模の組織力を誇っていたサブカル企画集団の呼び名、それがJOINである。

その年の夏、日本経済新聞全国版に「新規開局するFM局の番組をミニFM局が制作!!」という見出しが踊った。
秋に開局することが決まったエフエム中九州にJOINが番組制作で参加することを伝える記事であった。

そして誕生した番組…。それこそがアメーバ伝説の起源とされる「WA!アメーバだ」なのである。

月曜深夜1時からの59分42秒番組。
ノーCMつまりサスプロで制作されたこの番組は、数多くの逸話を残し、そして十数年を経た今でさえ、そのエネルギーは生き続けている。

《FMなのに音楽がほとんど無い》
当時、FMと言えば音楽放送と言われるほど、音楽の比率が高い番組を流すのが定石であった。そこに初めて風穴を開けた番組が「WA!アメーバだ」であった。
クリアなサウンドを音楽だけに使うのは余りに芸が無いと考えた22歳の私は、あえて1時間で楽曲を1〜2曲に抑え、むしろシチュエーションをイメージ出来るような立体音響のコーナーで番組を構成することにした。

《世界初!!バイノーラルによるレギュラー番組》
ヘッドホンで聞くと、スタジオの360度の音場が再現できるバイノーラル方式を採用。DJやリポーターが耳元で囁いたり、車が前から走って来る恐怖感を再現するなど、様々な試行が意欲的に続けられ、その話題性は世界の放送技術関係者から注目されるほどであった。(文献も多数著わされている)

《トークラジオの原形》
アメリカで一般的になったトークラジオ、その原点はうちのインターネットラジオfmcにあるとされ、イギリスBBCなど海外のメディアが取材に訪れたりしているが、それには若干の誤りがある。本当の原点は「WA!アメーバだ」なのである。
いじめ問題を逆手にとっていじめっ子の視点でその悪質さをとらえた佳作「いじめっ子大集合」など、明らかに時代を先取りしたコンセプトが随所に活かされていた。

《誰でも参加できた》
コネクション優先という、放送業界が持つ悪癖が大嫌いな私は、ともかく出たい奴はみんなスタジオに来い!というスタンスを貫くことを決心した。それは老若男女、貴賤上下の別なく、ともかく番組に何らかの形で参加したいと思う人物にはスタッフとして自由に参加出来るという前代未聞のスタイルであった。下は中学生から上は社会人まで、気がつけば50名近くの仲間がスタジオを毎回埋め尽くしていた。

《束の間の自由》
プラハの春ではないが、夢は長くは続かないものである。「WA!アメーバだ」の春はたった1クール(3カ月)であった。
誰もが参加出来る自由さは、一部の既得権者の反感を買うことになる。
あるときは車上狙いの嫌疑が番組見学者にかけられ、公開番組であることへの牽制もあったりした。
しかし最も危険な問題が他にあった。当時の私の《知力の低さ》である。
大人のやり方に迎合出来ない純粋さを持ち、常に戦闘的な態度を自慢していた私は、最終的に番組打ち切りへのシナリオを無意識のうちに作り上げていくことになる。

《伝説の最終回》
何の前触れもなく、突如、日本の放送業界のシステム全体を1時間に渡って強烈に批判するというまさに前代未聞の最終回が放送された。
JOINの奴らは何をするか分からない…恐らくそう考えたであろう編成側のチェックを見事にかわし、間違いなく「朝まで生テレビ」なんかより遥かにインパクトのあるラジオ番組が暮れの熊本の空に踊った。
ちなみにこのとき私が番組内で言い放った放送批判は全て現実のものとなり、現在も尚、オウム報道やバタフライナイフ報道の問題点などとして表面化している。

《激震走る》
アメーバ打ち切りの報は、熊本の熱狂的なファンはもとより、テープで回し聞きしていた全国のヘビーリスナーにも衝撃的なニュースとなって瞬く間に伝播していった。
その中には、ベテラン放送作家、評論家など多くのジャーナリスト達が居た。私の主張に惚れてくれた彼等は、結果的に私を東京の現場に引き戻す原動力となってくれたのだがこれはまた別のお話。

《アメーバは死なない》
興味のあることなら何にでも触手を伸ばし、そして仲間を取り込みながら増殖する。これが「WA!アメーバだ」のピュアなコンセプトであった。

そして、私はあの頃を思い出すと、青春の気恥ずかしさを感じると同時に、言いたいことを堂々と最後まで言い張れた誇りと、折角集まった仲間を雲散させてしまった後悔の念が蘇る。

あれから13年…。

熊日夕刊ヤング欄という、私にとってもう一つのホームグラウンドでコラムを執筆する機会を得た。
担当のトンコ編集長との「タイトルを何にするか」という最初の打ち合わせ…。約2時間に渡ってあーでもないこーでもないと知恵を振り絞ったものの、なかなかいいのが浮かばない。そこで思考を切り替え、我々は原点に帰ることにした。
私の原点…すなわちアメーバである。

「いつまでも引きずるんじゃねぇ!」という罵声が飛んで来そうだが、そんなことは完全に無視である。

さてさて、メモを見返すといろんな文字が並んでいる。
「アメーバの告白」「アメーバの素」「アメーバなやつ」「アメーバの気持ち」「アメーバ娘」…それに「アメーバ夫人」なんて馬鹿なのもある。

結局、私が好きな時代劇のひとつ「大江戸捜査網」から拝借して「アメーバ捜査網」というこれまた意味不明なタイトルが決定した。
アメーバ、13年ぶりのマスメディアへの復活である。

《復活の日》
大人のやり方に迎合出来ない純粋さと、常に戦闘的な態度を自慢していた私はもうここには居ない。
大人のやり方をうまく料理し、とり繕った笑顔の下に戦闘意欲を隠す芸当も得て、私は別な私になった。

「ええ、朱に混じわれば真っ赤になってやりますよ!!」(笑)

しかし私は確信している。
平成10年の今、必要なのは「WA!アメーバだ」の現状打破の革命思想である。

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