テレコム九州における自己完結型エッセイ/ParaTのいけてるマルチメディア
テレコム九州は「社団法人九州テレコム振興センター」が発行する小冊子(季刊)です。

Vol.24「マルチメディア 対 自分」

2003年2月上旬執筆(2003年4月号掲載)

(前書き)

暖かくなりました。「書を捨て町に出る」には非常に良い季節です。でも、最近は書を捨てたつもりで町に出ても、いろんな情報端末があったりしまして、結局何かしら文字情報を眺めてたりするんですよね。ほら、何とかビジョンとか電光掲示板とかの類ですよ。便利と言えば確かに便利なんですけどね・・。でも、本当に必要な情報なのか?と言うと、やや疑問が残りますね。
唐突ですが、古い邦画の話です。故深作欣二監督が撮った映画の中に『県警対組織暴力』というのがあります。演出のぶっとび具合で言うと代表作『仁義なき戦い』よりもいい感じの作品です。川谷拓三迫真の演技というのは結構有名ですが、笑っちゃうのが制服警官姿の菅原文太。滅多に拝めませんしね。
あ、別に映画の話をしようというのではありません。今回は「県警対組織暴力」にあやかって、「マルチメディア対自分」というテーマでお送りしましょう。マルチメディアと自分(自我)・・主役はどっちだ?という内容です。あなたはマルチメディアを支配していますか?それとも支配されていますか?


『30人に12人!!』
私ごとで恐縮ですが、週1回のペースで『超初心者のためのビデオカメラ講座』と『デジカメビギナー納得講座』というのを《びぷれす熊日会館(熊本市上通)》の中にある熊日生涯学習プラザというところで開講しております。親切丁寧と好評です・・本当ですよ。
この講座は、かれこれ1年半ばかり続いておりますが、生徒さんの多くは概ね年輩の方。それなりに皆《強兵(つわもの)》でございます。なんたって「箱から1度も出したことがないんです・・ははは!」な〜んて人が沢山来ますからね。教える立場としては、毎回体力勝負(笑)で、気が抜けません。でも、家電品の裾野、それも最も底辺に居る大多数の潜在的ユーザーというのは、概して彼等のような《ド素人》なわけですから、彼等が投げ掛けて来る超素朴な疑問というやつに何度「目からウロコ」が落ちたか分かりません。侮れないですよ。
講習は朝10時スタート。1コマ90分となっております。昼休みを挟んで、午後の講座(同じく90分)をやります。で、会場を後にするのは午後3時近くです。
結構ヘトヘトになりつつ、びぷれす前の「通町バス停」で帰りのバスを待つのですが、ベンチに腰掛けボォーと佇んでいると、何やら奇妙とも言える光景が目に飛び込んで来たのでした。
うーん、奇妙と言って良いものか・・。ある意味「日常的」かつ「当たり前」な光景なので、そんなもんを注視するなよと言われそうですが、でも「奇妙」ですよこの光景は・・。
そもそも人間の視野というのは、角度にして大体45度というところらしいですが、その視野の中に映り込んでいる人々が・・そうですねぇ・・30人ほど居ます。この30人の中で、携帯電話で会話している人、携帯メールをやっている人の数・・なんと12人でした。
半数近くですよ。異常じゃありませんか?・・否、奇妙ですよこの光景は・・。
雑踏の中の市民。その半数近くが携帯使って何かやってるわけです。10〜20代の男女が圧倒的に多いですが、それ以上の世代もチラホラ混じっております。
中には、重たいカバンを抱えて必死の形相で業務連絡をしているという風体の営業マンもいますが、概ね業務で携帯を使っている風ではない「なんとなく使ってま〜す」てな感じの人達が多数を占めているように見受けられます。
ん?やっぱり日常的な光景ですか?・・だから何だ!って?・・。でもねぇ、やっぱりおかしいですよ奇妙ですよ。
彼等は《用も無く》携帯使って、誰かとコミュニケートしなければならないという、半ば脅迫神経症的なココロの軽症症に冒されていると思いますよ。
私はね、バス停でバスを待ってる数分の時間って、とっても大事な時間でしてね。その間、何かしら企画を練ってみたり、物語のストーリーを創ってみたり、あるいは風景観察をして何か興味深いものを発見したりと・・非常に豊かな時間なのです。当然、携帯で無作為コミュニケートをやろうなんて「無駄」なことは致しません。いやいや、必要な時には使いますよ。しかし「誰かいないかなぁ・・」とか「メール来てないかなぁ・・」なんて暇なことはやっとられんのです。
しかし、現代日本人は違うんだなぁ。ともかく誰かと繋がってないと落ち着かないのですわ。
じっとしている時、歩いている時・・実はこういう時間って、脳内活力が増す時間と言うか、何かを思考するのに最も向いている時間なのです。ところが携帯の驚異的な普及によってこの大切な時間がないがしろにされているわけですな。
実はこれって、日本の将来に暗雲を漂わせるとんでもない危機なのではないか?と真剣に考えるようになりました。


ちなみに私の会社(WebラジオFMC)には、コンスタントに若者の入門者が現れます。1976年からこういう若者を見続けているわけですから、ある意味私は若者観察のエキスパートということになります。で、そのエキスパートの目を通しての感想なんですが、1993年頃を境界として、その前と後で若者の素性がまるで変っちゃってるのです。
93年以前の若者は、それなりに何かを思考して「創造力を発揮する者」が沢山いました。ところが93年以降は、思考せず「模倣する者」が増殖しちゃってます。
もっとも93年と言ってもズバリその年というわけではありません。93年頃をピークとしたクロスフェードと考えて頂くのが宜しいでしょう。
ではこの時、世の中では何が起きていたか?・・と言いますと。それは「ポケットベル」の流行です。


それはポケベルから始まった。
それまでピーピー鳴るだけの汗臭いオヤジ向けツールとして、どちらかと言うとカッコ悪い情報機器であったポケベルが、バイブレーター機能と、文字表示機能を有することによって、女子高生人気の「かわい〜い。」ツールとして生まれ変わったことから、情報機器のパーソナル化が始まりました。その後はPHS、携帯へと進化していったわけです。皆様もここら辺の話は記憶に新しいかと思います。
実はここからなんですよ。情報機器のパーソナル化、びっくりするほど急速な普及・・これと時を同じくして、若者がどんどん馬鹿になっていったのは。
まぁ、こう書いてしまうと、よくある「情報機器悪者論」になってしまうので、きちんと整理しておこうと思いますが、私はどちらかと言うと逆の立場で捉えています。悪いのは使っている人間なのだと・・。

昔から馬鹿は何とかと申しますが、情報機器なんてものは所詮道具に過ぎないわけです。確かに便利です。便利なんですが、便利というのは必要な時に簡単に目的を遂行できるから便利なのであって、使わなくていい時に使ってしまうのは、イラクで乱発されたアメリカ軍のトマホークみたいなもんで、余計なもの。実に下らんのですよ。
お、いい例え話が出ましたので、ちょいと国際社会に目を向けてみましょうか。
USAです。アメリカでございます。好きか嫌いか?と尋ねられれば個人的に「大嫌い」な国の1つでございます。この個人的に大嫌いなUSAにも少しはまともなメディアがあったようなので、その話題をご紹介致しましょう。
去る3月22日付のニューヨーク・タイムズ紙ですが、それまでブッシュ政権が主張してきた「アルカイーダとイラクの関係」「イラクによる大量破壊兵器の隠匿」について、アメリカ国内メディアによる一連の報道の結果、「決定的証拠」がないのに多くの米国人がこれを信じ込まされてきたと指摘する声を紹介しております。
要するに、アメリカのメディアが国民を煽りまくったお陰で、9・11同時テロの実行犯19人の中にイラク人は1人もいなかったのに、アメリカ国民の約半数が「数人はイラク人だった」と答えるように洗脳してしまったということです。
恐いですねぇ〜。メディアが言う事は全て真実だと思い込まされているのです。
日本も似たようなものですね。メディアが煽ればパフォーマンスだけの政治家も高支持率が叩き出せる国情でございます。
ワイドショー政治なんて言葉が生まれるくらいでありますから、自ら思考することなく、模倣と従順を是とするだけの国民が如何に多いかが伺えます。


抵抗力が・・無い。
メディアを通じて流れて来る「情報」というものに対する対抗力が無く、それ以前に、携帯やPCなど様々な情報機器を本当に「便利」に使いこなしているわけでないフツーの市民が21世紀の日本中に溢れかえっているわけですが、そういう時代だから仕方がないで終わらせるか?・・それとも、錆び付いた頭に油を注してハンマーでガツンと一発入れて再稼動させるか?・・むしろマルチメディアで飯を喰ってる我々に鍵があるのと違いますやろか?
道具の使い方をきちんと教える道具屋はいい道具屋。そうでない店はやがて飽きられる。これって商売の鉄則だと思うんですけど・・なかなか共感が得られないのは残念だ。

これまた私ごとなんですが、3月19日に第2子(男の子)が生まれました。近所の産婦人科(第1子の時と同じ医
院)だったんですけど、入口に「医療機器に悪影響を及ぼす可能性があるので携帯電話の電源をお切り下さい」と書いてあります。病院ではよくみかける表示です。これが映画館とか電車の中だったら「電源切らずにマナーモードにしておきゃいいや!…」ってことにしがちですが、医療機器と書かれるとさすがに躊躇しちゃいます。
嫌いなおっさんとかが入院してたらわざとスイッチ入れてやるかもしれませんが(笑)、なにぶん自分の子供が生まれるという瀬戸際ですし、第1子出産の際に分娩室で立ち会ってますので、心音計など独特の精密機器を見てますから、率先してスイッチオフでございます。
今回は、上の子の面倒を見なければならなかったので、分娩には立ち会えなかったのですが、病室(個室)で朝10時から6時間を過ごしました。出産は午後4時過ぎでしたので。その間、携帯は当然オフです。昼過ぎに外気を吸いに出た際に1回メールチェックしましたが、それ意外は基本的に電源オフですから、誰とも繋がりません。もっとも、身内は病院の電話番号を知っていますし、外線を病室に繋いでくれるので、連絡自体は全く問題無しでした。
まぁそんなもんなんですよ。無理に誰かと繋がっていなくても、十分生活は出来るんです。むしろ必要な時にこそ大量に情報をやりとりすれば良いわけで、普段は電源オフで全然構わない。
そろそろ結論に行きますが・・。様々な情報機器を介した情報のやりとり(端折って行ってマルチメディアということにしましょう)は恐ろしく便利になりました。しかし、現代人はマルチメディアに支配されちゃってます。道具に使われているのです。奇妙でしょうこんなのって。道具なんですよ道具。使われてどうするんですか?使ってナンボです。
ある広告代理店の優秀な営業マンが「種田さん、私はインターネットやパソコンなんかに頼りませんよ。自分の力で仕事を取ってきますよ」と不敵に笑っていました。この人は有名大学を出た秀才なのですが、マルチメディアに対する懐疑心に支配されちゃっていて、正常な判断が出来ていません。何故なら、インターネットやパソコンなんかで仕事は取ってこれません。仕事を取ってこれるのは人間の力しかないのです。だから比較すること自体おかしい。インターネットやパソコンなんてものは所詮道具です。料理でフードプロセッサーを使うか使わないか?という話に似ています。なーに、便利なら使えばいいんですよ。意固地にならずに。フレンチの帝王ポールボキューズだって「便利なものは便利に使う」と言い切るくらいですからね。使っていいんです道具は、自由に。
でもですね。確かにこの人は、やや意固地かな?という感じではあったけれど、言ってみれば「自分」というものを持っていたわけですよ。道具なんかに自分(自我)を支配させないという崇高な理念があるのです。これって凄く重要なことじゃありません?
意味も無く、往来をかき分けながら一心不乱にどうでもいいメールを打っている姿。これが自我だとしたら、悲しいの一語に尽きます。
なんかねぇ。今時の日本人って道具の使い方が分ってないですよ。悲観的に言えば、もはや手後れのような気もするんですが、これをお読みの皆様はそれなりに見識の高い方だと拝察致します故、しつこく言っておきます。
マルチメディアは道具だ!道具を使うのは人間だ!無駄に使わず便利に使え!ってね。ぜひ皆様もご唱和下さい。


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